東京レジェンド

1998年1月号 海の法規と知識 第32回
「東京レジェンド」より抜粋

中山隆一郎 著

 

 芝浦のカッちゃん

 ロロロロ.....。先週までガロガロガロと騒々しかったエンジンの音が今では嘘のように静かになった。この音色に誰よりも敏感に反応するカッちゃんは、相変わらず酒臭い息を吐きながら私に話しかける。
 「やっと調子よくなったじゃねぇか、最近ボートが繋いでないからカッパらわれたと思ってたけどエンジンの修理をしてたのか」  相変わらずの口の悪さだ。いつも一言多いカッちゃんだが彼の言葉の波長はなぜか心地よく響きわたる。そして芝浦にいるという実感がもてる。

 東京のレインボーブリッジの橋の下辺り一帯が芝浦というところで、浅草とは多少違った意味で下町風情あふれる私好みの町だ。バブルの頃は芝浦再開発などといわれながらあちこちの企業が進出してきた地でもあるが、臨海副都心がことのほか活性化し、人並みは高い橋を越えて台場に向い、芝浦はまた元の町並みに戻り、残念がる人もいればホッとする人もいた。
 芝浦の某企業の社長のご好意により我々のボートは社長の所有する桟橋に繋ぐことができ、そこを根城にしている。この桟橋のある岸壁に沿って建つ古びた建物の1階の倉庫のようなところで暮らしているのがカッちゃんこと大隈克治(仮名)だ。カッちゃんは、ドアーを開ければ目のあたりにするのが我々のボートという環境下、我々の行動を終始眺めており、いつからか会話を交わし、ボートの番人的な存在にもなり、むしのよい話しだが我々も少なからず彼に頼っていたのである。

 「中山君よぉ、俺もぼちぼちここ(芝浦)を離れることになったから、千葉の兄貴(実兄)のところにでも行って世話になるよ」

 いつもの威勢のいいトーンとは違い、語尾や言葉の節々からそれとなく寂しさが感じられる。
 聞くところによると住まいの建物は取り壊されて新しいマンションが建つということらしい。もとより人様の建物の一部で金も払わずに生活をしていた立場上、断わることなどできないのだが、他ならぬカッちゃんのこと、よくも同意したと不思議がる反面で、怖もての顔のどこかに人間の老いた姿を感じた。

 芝浦では彼のことを「芝浦の生き字引」と呼び、誰からも恐れられ、そして煙たがられていた。終戦の復興期から高度成長、バブルと余すとこなく東京の裏表を見てきたカッちゃんは、その過程で人々の悪事や恥部を見てそして体験してきた。

 今では偉そうな顔をしているあそこの社長ここの社長、あそこの組長ここの組長、多種多様な人物が終戦直後にこの芝浦でカッちゃんと横並びで育ったという。皆が成長していく中でカッちゃん自身は人生の半分は刑務所暮らしという結果に何ともやりきれない想いがあるらしいが後悔はしていないようだ。

 終戦直後の芝浦はそれはもう酷かったらしい。もとより芝浦は港湾事業で栄え、夜にもなれば根無し草の港湾労働者が酒、女、ケンカに溺れ、毎週のように芝浦運河には死体が浮いていたという。
 カッちゃんは売春婦をボートに乗せ、沖で停泊している船まで運ぶことを主たる生業?としており、時には死体を沖で沈めて処分することもやっていたらしい。毎晩のように飲みまくり抱きまくり、金が無くなると仕事をし、仕事とは借金を返すためのものだというのがカッちゃんの哲学だ。そしてカッちゃんには自分なりの出世の哲学というものを持っている。

 当時は皆が横並びだった社会的地位が今では雲泥の格差がある。企業家、暴力団、政治家と各々進むべき道は異なったが、現在トップに立っている奴らに共通して言えたことは酒を飲まなかったことだという。猫も杓子も毎晩のように酒を飲み、酒代を稼ぐために働いていた環境で、酒を飲まずに貯蓄をしていた奴らは例外なく出世しているらしい。いつしか雇用者と労働者の関係に別れ、労働者は金のためなら何でも引き受け、カッちゃんのように鉄格子の中にいた者も少なくないらしい。カッちゃんが人生60余年で得た最大の教訓は「酒を飲まない奴は頭がいい、頭がいい奴は酒を飲まない」ということだ。
 カッちゃんは私に云った。
 昔と今とでは時代が違う。当時は「酒を飲まない奴は頭がいい、頭がいい奴は酒を飲まない」ということを心得てさえいれば誰でも大きくなれた、それを今の時代にあてはめて考えれば大きくなれるはずだ。誰でも。

 この言葉は結構意味が深い。私なりに解釈すると、消費者、労働者、時代の3つはそれぞれ何を求めているか、そしてそれに溺れるか提供するかの冷静な判断さえ間違わなければ力は後からついてくる、そういう事ではないだろうか。

 あるときカッちゃんは旧友でもあり某企業の社長でもある方に呼ばれて会社を訪れたらしい。その時その社長はカッちゃんに何かを求めて交渉したらしく、カッちゃんは話しを蹴って、最後に「殺(バラ)して沈めるゾ」という捨てゼリフを吐いて帰ってきた。恐らくその社長は法治国家の現代の常識では絶対に考えられない罵声の数々を浴びたに違いない。そして相手がカッちゃんならば何が起きても不思議ではないと考えていたことだろう。

 私はカッちゃんとは違う。将来に向かってカッちゃんのようにはなりたくない。しかし、人間として、そして男としてカッちゃんに少なからず魅力がる。

 生涯、税金というものを払ったことのない男、保険というものをかけたことのない男、住所を持たない男、失うものが何もない男、意に沿わなければ殺(バラ)して沈める男、あんたの人生は凄いよ、最高!もしくは最低だよ。

 今から丁度1年前、カッちゃんは芝浦を後にした。もう帰ってくることは無いだろう。「芝浦の生き字引」が去ることに胸を撫で下ろすお偉さんが沢山いるに違いない。  カッちゃんは桟橋を後をする前に私にこう云った。
 「困ったことがあったら何でも相談しに来いよ、後のことは宜しくな」

 カッちゃんには悪いがあんたの意志を継ぐつもりなんてないし、そのことをカッちゃんが一番よく知っているじゃないか。そもそも時代が違うんだ。カッちゃんが教えてくれた教訓に一つだけ結論がでていることがある。今の日本、無数の法規を知らないでは済まされないのが法治国家としてのニーズではないだろうか。

 カッちゃんが芝浦を去ってから1年が経った今、カッちゃんが最後に残した「後のことは宜しくな」という言葉の意味がやっと判った。

 カッちゃんの親友のアヒルは今でも元気だ。時々エサも与えてる。芝浦運河の水が汚いのが気になるけど改善するための努力はする。

 カッちゃん、あんたに出会えて本当に良かったよ。


 アヒルの家

 俺の朝は早起きだ。  港湾労働者というのは早起きだからボートの引き波で我が家はゆらゆら揺らされ起こされてしまう。イカダの上に隙間風が入るような汚い造りの我が家だが赤親父が折角造ってくれたのだから今でもここに住んでいる。

 人間という奴は酒という飲み物を飲むと顔が赤くなる。いつもエサを与えてくれるあの人間は朝から晩まで赤い顔をしているから私は赤親父と呼んでいる。日頃は世話になっているからたまには赤親父に酒でもご馳走でもしたいのだがアヒルの俺にはそれができないのが残念だ。

 ところで最近ボートが一つ増えたが、正直いってこのボートの人間はあまり好きではない。週に1回ぐらい来て、赤親父とよく話しをしていることは構わないが、エンジンをかけたままにしないで欲しいもんだ。ウルサイしクサイし、煮ても焼いても食えないような人間だ。だから私はあの人間をクソッタレと呼んでいる。おまけに最近ではエンジンの音が次第に大きくなっているようだ。エンジンの調子が悪いならボートなんて捨ててもうここには来ないでほしいものだと思っていたところ、クソッタレは本当にボートに乗って出港したまま帰ってこなくなった。願いというものは信じればアヒルの神に通じるものだ。

 あれから2週間、やっと平和が戻ってきたと安心してたところにまたクソッタレが帰ってきた。腹が立ち、怒鳴ってみたものの人間には「ガーガー」としてしか伝わらないようだ。そんな折、赤親父は私の気持ちとは裏腹に笑顔で家から出てきた。しかし何だか寂しそうな感じがしないでもない。

 例によってまた、赤親父とクソッタレは話しこんでいる。あんなクソッタレと話して何が面白いんだろうか、人間という奴は本当に理解できない生物だ。

 それから間もなく、赤親父の姿が見えなくなった。やむなく私はエサを自分で探すのが日課となってしまった。当たり前のことでもこれまで赤親父に甘えていただけに、面倒くさいという気持ちが本音なのだ。相変わらず現れるのはあのクソッタレ、あいつは迷惑なだけだ。とっとと消えやがれ。あ〜またエンジンかけやがった、騒がしい!(ガーガー)

 赤親父の姿が見えなくなってもう1年が経った。寂しさよりも何だか心配という気持ちが先立つ。
何かあったのだろうか。
そんな事を考えていたところクソッタレがやってきた。

 おいクソッタレ、赤親父はどこに行ったんだ?もう帰ってこないのか?おい、返事をしろよ。そんなことをクソッタレに向かって言っていると、クソッタレがこっちにやって来るではないか。

 何しに来たんだクソッタレ?うわ、ゴミを投げてきやがった、何なんだアイツはふざけやがって。しかし、ゴミとはいえ食い物だから食べてみるとするか、背に腹はかえられない。クソッタレめ、掃除してやっているんだから有り難いと思えよ。

 それからというもの、クソッタレは来るたびに何か土産をもってくるようになった。あいつは案外、悪い奴でもなさそうだ。頂けるものは有り難く頂戴する、これアヒルの鉄則なり。

 おいクソッタレ、もう赤親父は帰ってこないんだろ、おまえの目を見ていれば判るよ。俺はおまえのことが好きじゃないけど、まぁ仲良くやってやるよ。そう呟いているとクソッタレが私に向かって何か話してくる「ソノウチ・アタラシイ・イエヲ・ツクッテヤルカラナ」。

 何だ文句言ってるのか?人間の言葉は本当に判らない。やっぱりあいつはクソッタレだ。

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